Veena Room Word

Veena Roomが考えていること②

Philosophy&Mission

Veena Roomのポリシーは

コチラから。↗

精神性の大事さ

 スピリチュアルという言葉を日本語にすると「精神性・霊性」ということになる。

私は、スピリチュアルという言葉が独り歩きし、

それは何となくフワフワした、得たいの知れない事のような・・そんな

自分の内にあるものとは、別物のように捉えられている傾向も感じ

昔から「スピリチュアル」という言葉をあまり使いたくないのだが

肉体や物質とは、また違う性質という意味合いでは共通言語として通じやすいので、使うことがある。

私にとっての「スピリチュアル」という精神性は、誰しもの内にあるもの。

そして、その精神性や霊性を、高めていくことは「トランスパーソナル」という

「これが自分である」という枠や制限を超えていくことに繋がり

そして、この世界や地球の「見方」を変えていく為にも、重要だと思っている。

心を含む自分の内にある「精神性」の大事さについて、Veena Roomの考えていることのお話を進めていきます。
やや、難しい言葉も出来てきてしまうので、ぼちぼちどうぞ。

woman spreading hair at during sunset

人の持つ知性

人には知性があります。多分、動物にもあります。
それが、人間にしかないと思っているのは、人間のおごり高ぶりかもしれませんね。

いずれにしろ、人間特有の知性を持っているのは確か。

とはいえ、この知性というのは
いかようにも使えてしまいます。

この地球の調和のため、自他を幸せにする為の智慧にすることも出来ますし
この地球の破壊や、自他を傷つけることにも使えます。

ということは
知性だけでは、この地球や人々の、真の調和や幸福をクリエイトできない。

知性と共に、精神性を伴うこと。

「心」の養徳が必要であることが、わかってきます。

「分別智」という、ヨーガ哲学や仏教哲学などでも言われるような
物事の分別を、自分の知で見分ける力です。

知性と精神性は
「おかしい」ことに気づける力にもなり

何か問題が目の前にあったとしても、
それを「転じる力」や
周りの人と「協力しあう力」にもなりますね。

「おかしい」こととは、不自然なこと。

自分に起こっている「おかしい」ことや
世の中の「おかしい」ことといった

その不自然な状態にさえ、気づけないのは

「いばらの上に座っている」のに
その痛みに、あまりに慣れてしまい、麻痺しているようなものではないでしょうか。

その痛みを緩和してくれる物事も、世の中には溢れている。
しかし、そのほとんどは、対処でしかなく根本的な解決ではない。

それどころか、たんに目を逸らす為だけになっているものが
どれだけ世の中にあり触れていることか。

「じゃぁ、どうすればいいのか?」

¨そもそも¨までを、辿っていくと
知性を発揮できるための「精神性」を養うことは
先決です。

black metal bench

動物でも自然に理解している「調和」。
人は「心」が在る故に、その心次第では「不調和」をも生み出してしまいます。

不調和は、人の心の中にも、社会にも起こります。

その調和は、動物や自然からも、学ぶことが出来ます。
「自然の法則」「陰陽の法則」といったことで、それらは教えます。

例えば、陰陽は常に、互いにバランスをとろうとしますし

陰陽五行の五行もまた、互いに引いたり押したりで、調和をとろうとします。

陰と陽のお話をします。

例えば、調和を生み出そうとしたならば

陽の力で生み出し、「分化」し、「発展」させることが出来ます。

それらを陰の力で「受容」し、
もし、もう不要なものが生み出されたならば「省みる」「省く」ことが出来ます。
受容により、それらを含み統一させようとするのも陰の力です。

そして更には、陰陽のコントラスト・バイオリズムをできるだけ穏やかにし
「統合」・「調和」させ
新しいシステムを生み出すことが出来る。

陰極まって陽が生まれ、陽が極まれば陰が生まれます。
「生化変」という、絶え間なく太極し合うエネルギーは
この現象界、全ての法則であり

ネガティブも、ポジティブもどちらも必要です。
問題は、そのバランスのとり方が、ナチュラルであるかと
そのタイミングです。

例えば、ポジティブ思考も大事かもしれませんが
ポジだけでは、バランスがおかしいわけです。


その法則に則り
人はそれを応用していく「智慧」という知性が使えます。

逆に、知性は利己的に使うことも出来ます。

「人というのは利己的でわからずやだ」と言ったのは
逆説の十か条のケント・キースさんです。

しかし、「それでもなお、自分のベストと愛を、世の中のために使いギブしなさいなさい」と言っています。


自分のその言動が、「何の為なのか?」それを自分が理解しておくことは
ブレない「軸」になります。

自我があることで、人は利己的にも、利他的にもなれる。

人間は知性をもってしまったがために、その知性の奥にある

ありのままの自分という、本来の自分がわからなくなってしまったのでしょうか?

私たちの「自我」にある心には、どんなことが深層にあるのか?
自我ではない「本当の自分」という「真我」はどういうものなのか?

それを「知りたい」ということが、インドをはじめ私を世界の様々な場所への探究に誘った理由でした。

心・意識・精神ということについて、インドのヴェーダ哲学をはじめとする、中医学や元極学、仏教哲学、道教、易学・陽明学のような東洋思想・東洋医学と、トランスパーソナル心理学や精神分析法から見えてきたことは、

全て、日本のそもそものアニミズムに通じているものだと感じます。

人にとっての「知」とは

 もう少し「知」について、掘り下げてみます。

先ほど、動物にも「知」はあるだろうと申し上げました。

それぞれの生物の「知」が、あるとすれば「人としての知」とは何でしょうか?

それを考えようとしたときに
まず「人とは?」を考えなければ、見いだせないものでしょう。

人を単なる、肉体をもった物質とみるのか?
スピリットとしてて「精神」が伴っているのか?

もし、精神があるのであれば
人の精神とは何なのか?

「知」は、知識の知でもあります。
それは、物事を「知っている・認識している」というのは読んで字のごとくです。

ただ、「叡智」や「知恵」という、もう少し崇高な意味合いで見た時に

人として生きる為の分別のアイディアであると言えます。

であるならば、そもそも
自分が「人とは何か?」を前提にしてこそ、そのアイディアの質が変わってくる。

それは、お勉強が出来る出来ないとかという「知識」だけではないもの。

アイディアとは、語源を辿れば
ギリシャ哲学の「Idea/イデア」からきています。

イデアとは、スピリットとしての「心の眼」つまり「精神性や霊性」で見る形のことですね。

それは
真の認識であると言えます。

東洋思想であるヴェーダ哲学や、仏教哲学でいう
「正念」のこととも似ている。

本質的・根源的に見ること、真理に基づくもの。

もちろん、その答えなどは生きているうちに出ないかもしれない。

それでも、それを見出そうとして生きるのか?
無視して生きるのか?では
人生の見方や質は、変わってくるでしょう。

「philosophy・哲学」の語源であもある
「philosophia・フィロソフィア」は「愛知」と訳されます。

これは、愛を知る?なのか、知を愛する?なのか、どちらともとれますね。

哲学や思想となると、言葉も難しく、面白いと思える人は少ないかもしれませんが
もっとシンプルに

私たちは、自分である「人」とは、何であるのか?
つまり「私は何者なのか?」ということを、

世間一般的な肩書ではからない視点も
必要であると思います。

それは、それぞれの真理。

もし、シンプルに「人は愛の存在である」
ということを見出したいのであれば

その「愛」についてを理解しようとすることで
人としての自分を理解することに繋がるでしょう。

自分は何者かにはなれないわけです。
大前提として、「自分を知ること」

これが、自分を自由にするものであると思うのです。
自分をしらなければ、自分らしく生きる知恵も見いだせない。

知恵とは「知の恵み」
この恵みは、どこから来ているのか?

私の場合は、それを「真我という本当の自分からの直感」であると考えています。

とはいえ、全ての人がそう生きるべきであると言っているのではありません。

しかし、そのような視点をもって生きたならば
人生の見方、世界の見方は変わってくる。

それは、自分の制限を外し「楽」に生きることに
繋がるわけなので

もし、いま生きづらさがあるのであれば
意識をもっと、拡大してみることはお勧めします。

そして、そのような見方で互いを理解し合い、社会を生きる人が増えれば
世界は変わっていくだろうと信じ、発信をしているわけなのです。

では次に、人が自分のことを根源的に理解しないまま、周りの言う「常識や概念」からの思い込みや

ガチガチの思考で生きている場合

どのような事が、精神構造の中で起こっているのかでしょうか?お話を進めていきます。

「誤認知」という、心の癖

意識の拡大をしていくと、いかに普段は狭い意識の中で物事を捉えているかがわかってきます。

部屋の一部分にしか当たっていないスポットライトで、見えている範囲だけを「全て」だと思い込んでいるようなものです。

心という「思考や感情」を含む「表面的な意識」と、「潜在意識」には、

様々な「概念や情報」が蓄積されています。

先ほどのスポットライトを例にしたように

視野の狭い「自我」というのは思い込みが激しく

そしてそれが、時に本質を見えづらいものにしている。

その意識は精神性に影響を与えます。

それは、自分の在り方となり、身体となり、言動ともなり、現実への全ての投影になる。

自分の内を映写機で映し出した世界だけを、「現実だ」と思っているわけです。

部屋の明かりを、スポットライトから全体を照らすものに変えれば、見えてくる現実は激変します。

つまい、自分の内の認知が変わったならば?意識が拡大したならば?

その投影も、現実も変わります。

「認知」つまり
自分自身の「知」の認識でもあります。

しかし、自分のもっている「概念」だけに執着している状態は
スポットライトだけでは、見えていないことを「認識」することが出来ません。

「概念」とは、物事の捉え方のことだね。

その概念は、自他を苦しめてしまう「誤認知」として情報をピックアップすることがあります。

東洋医学・東洋思想では、心・身体・魂は繋がっているという「心身一如」という考え方があり

心の在り方次第で、それは身体に影響をもたらします。

また言動の選択にも関わりますので、やはり人生そのものにも、心は投影されていくのです。

日本人であれば、なんとなく「心身一如」について、わかっている人が多いにも関わらず

いざ、自分の健康や、人生に問題があったときには、それが自分の心のせいだとは思わない。

ここから見えてくることは、
「分断意識」と「精神性の欠如」。
そして、「誤認知」を自分で修正することの難しさです。

自分では対自しにくい「誤認知」


「誤認知」は潜在意識の中で起こっているため
自分ではなかなか「気づけない」

「気づき」とは、心理の深い部分で、別の概念へ視座が変わったとき、
表面意識で「わかった!」という理解に繋がります。

その為にはまず、その「誤認知」に向き合う作業が必要になりますが
自分では「誤認知」があることすら気づきにくいもの。

頑固な執着になっています。

そして何より、それを一人で内観する作業は、時に辛いこともあります。

例えば
「私はいつも、人との関係で怒ってしまうし、愛されるに値しない」
と思っている人がいたとします。

実際に、その人の現実では
人との不調和がよく起こり、愛を試すような行動をしているとします。

この人は、自分の中で
どんな承認欲求がおこり、何に枯渇感を感じ
そして、それがなぜなのか?など

その原因探しを、潜在意識の中までひとりで潜って
自分で対自するのは、「こわい」もの。

自分で見たくなものほど、奥深くに封印されている。

そして、そのような内観は時に
掘り起こすだけ掘り起こし
それを変容できないままでいると
「反芻」(はんすう)という、辛いものになります。

反芻とは、その「誤認知」をただひたすら、繰り返し味わい続ける状態。

であれば、誰かや社会のせい、運が悪いせいなどと
外側のせいにしているほうが「楽」なのですね。

例えそれが、生きづらいものだとしても
人は自分に、美しい嘘をつくのが上手です。

「誤認知」に気づけない事も、生きづらいけれど
気づいたのに変えられないままも、辛いもの。

だから、ヴィーナ インテグラルヒーラー・カウンセラーさん達は
自ら「気づける」ように促し、そしてそれを「修正」できるように
お手伝いするんですね。

自ら「気づく」ことはとても必要で、

なぜならば、それを人に言われただけでは

「頭」でわかっても
深い気づきに至りにくい。

人の心の癖は、頑固です。

日常の癖もそうですよね。

「その癖は、みっともないからやめなさい!」
と言われ

イケない!とはわかっていても

ついまた気づかぬうちにやっちゃうのが人です。

しかし、逆をいえば
やっちゃいけないことを知っているということは、

その逆も、もうしっかりわかっているということです。

自分で深い部分から、「やめる理由」を理解し
「なぜそれをやってしまっていたのか?」という、深層心理にあった原因が解消されたときに

その人の頑固な癖は、自然とでなくなります。

その原因は、たいていは

自分のエゴ・私心・七情というヴェールによるものです。

持っていた認知を無理に捨てるのではなく、別のものへ「昇華」するのがスムーズです。

依存なんかも、そうですね。
それは、〇〇依存症ということのことだけではありません。

人への依存、社会への依存
全部そう。

自らを信頼していく力を養います。
自らを信頼できれば、依存はなくなります。

そして、他者や社会に対しても
依存ではなく、信頼や助け合うという形で
コミュニケーションがとれるようになります。

依存関係と、信頼関係の違いを理解することも大事ですよね。

心の頑固な「癖」も、自らの気づきで修正していくことは出来ます。
それにより、心の解放が起こります。

因果の法則

さて、さきほど
「深層心理にあった原因が解消されたとき
その人の頑固な癖は、自然とでなくなります」

と説明しました。

「原因」ということについて、もう少し触れていきます。


全てのことには「因果の法則」という普遍的な宇宙の法則があります。

幸せの原因も、不幸の原因もあります。
健康の原因も、不健康の原因もあります。

いわゆる「自分の撒いた種」が、結果として育ち、実を成らすわけですよね。

キュウリの種を植えたのに、トマトは成りません。

だというのに、人と言うのは
キュウリの種をまいておいて
「なぜ、トマトが実らないのだ???」と言っているのです。

そもそも、自分で「何の種を撒いているのか?」に
気づいていないか
「トマトの種を撒いてるつもり」と言う場合もあります。


トマトが食べたいのなら
「このトマトの種を撒こう」と意図し

そして、実際に行動として
そのトマトの種を撒くという

その当たり前なことが
なぜか難しい。

人生というのは、もちろんそんな単純なものではありませんが
しかし全てはこの「因果の法則」によるものだと
受け入れるしかありません。

健康でないことも、問題があることも、夢が実現しないことも
全ては自分の中に「原因」がある。
自分でそれを撒いておいて、外に文句を言うのは

「おい!!トマトが成らねーぞ!!誰のせいだ!!」
と吠えているようなもの。

そして、それこそが「誤認知」であります。

「心身一如」という
心と身体が、繋がっているということを

日本人は何となくわかっているのに

病気や不調のサインが起こると
フォーカスするのは

「身体」であり
「病気そのもの」であり

自分の心にまで、あまり目を向けない。

ここから見えてくることは

人類の「分断意識」
これが根底にあるわけです。

全ての繋がりという体感を見失っている。

そういった意識は、病気だけに関わらず
物事に対しても
「ひとつの側面」でしか見れない視座となり

「正念」という
根源的な「元来」を見出す力の欠如に繋がっている。

明日も生きたくなる「希望」と「失望」

さて、少し暗いお話をします。
世界の中も、日本の自殺率は世界6位あたり。もとより諸外国に比べ多いのですね。

豊かだと思われている日本なのに相反し、生きることに「失望」してしまう人も多い。

特に2021年の統計では、統計開始以来はじめて、女性・若者・子供の数が至上初になってしまいました。

本来、生きる希望に満ち溢れた若者や子供が、
生きる希望をなくしているという社会問題を表していますね。

生きる希望〈 失望
というように、

生きる希望と、失望の差が大きくなっているという
問題が見えてきます。

とはいえ、それを社会のせいだけには出来ません。

それを、さらに掘り下げれば
生きる希望を「見出す力」の欠如。

さらに、深堀りすれば
やはり到達するのは

それを自分の中の
「思考」や「知性」だけで考えるのではない
精神性の欠如と言えます。

そして、ここ最近の流行り病で
ソーシャルディスタンスや、ひきこもりを余儀なくされ
社会との分断が、心を閉ざしてしまう要因にもなったと思います。

こういったことは、今に始まったことではなく
潜在的にあったことが、露出しているだけです。

「分断意識」は、
他者や、社会の分断の前に、
まず自分の心に、不調和が起こっているということ。

「明日も生きるのが楽しみ」だと思える人生を
人々は送れているのですか?
自分でクリエイト出来ているのですか?

という問いかけが、されたように感じます。

そういう観点からも
カウンセラーやヒーラーに大事なことは

・生きる希望を育む促し
・心の調和を育む促し
・精神性を育む促し

これも、重要だと考えます。

単純に、クライアントさんが思い込んでいる
表層の悩みだけを何とかするのが
カウンセラーやヒーラーのする事ではないということです。

その方の悩みの、もっと奥底には
悩みの「大ボス」がいます。

その促しが
喜びに満ちた人生を現実に起こす、その人の「力」になり

「明日も生きたい!」と希望に満ち溢れた生き方となるよう取り組みます。

shallow focus photography of white feather dropping in person's hand

分断意識をなくしていく

人類の「分断意識」が根底にある。
ということを先ほど、申し上げました。

これについて、もう少し触れたいです。

その意識は
社会の問題、個人の問題、全てに関係してくることだからです。

おにぎりで例えよう。

おにぎりの側面だけをみて
そのおにぎり全体の形がわかるだろうか?

勝手な想像は出来るかもしれない。
でも、三角だと思っていたら
斬新な六角形のおにぎりかもしれません。

ましてや
その、おにぎりの中身の具がわかるだろうか?

その、おにぎりのおいしさが実感できるだろうか?

全体を見て、その形がわかり
その奥深さを理解することで、具がわかり

実際に味わってみて
その美味しさがわかる。

多様性を受け入れ、見出す自分の真理

世界には、神を信じる人もいれば、虚無主義の人もいる。

私は

「梵我一如」「天人合一」であり、真我と自我は同一である。
けれども、それは行きつけば虚空虚無でもある。

という思想ですが無宗教です。

思想なんかは、人それぞれ、
はっきしいって何でもいい。とも思っています。

日本は、宗教をもっていないことは何とも思われませんが
海外にいくと「心がない人」と思われます。

スイスのチベット人に「君の宗教は、仏教か?」と聞かれ
「色々ミックスだ」と答えると

「ミックスだなんて、はじめて聞いた」と真顔で驚かれたものです。

そして、この混沌とした世界であっても
悪も善もないわけですが

まだまだ、「悪」にフォーカスしなければならないシーンも
陰陽のコントラストが強い、この時には「必要なプロセス」なのかもしれませんが

しかし、それをいつまでも続けるわけにもいかない。

陰陽の振れ幅を穏やかにしていき、
そろそろ「調和」へ収めていく視点は、今すぐにでももてる。

いずれにしろ
私たちに今、大事なのは

この地球でいかに
自然と人で調和して生きるのか?
信頼し、助け合い、互いの幸せと健康を願えるのか?

そして
自分自身も他者も、同じように慈しみ愛せるか?

その為に、自分が何をすればいいのか?を理解し、
目の前のことを誠実にできる「力」を養うこと。

これは、どんな思想を持っていても
共通意識で持ち合わせる必要が、今はあるように思います。

お釈迦様の思想をお借りするならば

この「人間界」は、地獄界に近いわけです。

人間界よりもっともっと、崇高な世界があるのであれば

ここはだいぶ「野蛮」な世界かもしれませんね。

人間界においても、仲間や家族うちですら喧嘩するような「阿修羅」になったり、欲望に翻弄される「餓鬼」になったりするね!

しかし、私たちは「人間」ですので、人間というステージを生きる以外ない。
その中で、どう生きるのか?

それは、正解だけを追い求めるような学校のテストとは違う。

むしろ、正解という執着すら放棄した先にある

「自分にとっての真理」を見出しながら
ただ誠実に目の前にある、自分のすることをする。

それは、きっと全人類、受け入れた方がいいのだろうねと思っています。

私の好きな一文があります。

インドの聖者ヨガナンダが、初めて悟りの体験をし大喜びで
その師匠のユクテスワに報告した際、師が言った言葉です。


「あまり恍惚に酔っていてはいけない。お前にはまだこの世でなすべき仕事が沢山残っている。さぁ、バルコニーの床を掃除して、ガンジス河の堤を散歩しよう」

そして、「自己の本性を悟っている人たちは、二重の生活を生きている。こうした人たちは、この世の仕事を誠実に遂行しながら、内的には至福の中に浸っている」と言ったそうです。


私はこの「さぁ、バルコニーの床を掃除して、ガンジス河の堤を散歩しよう」
という言葉が大好きなのです。

今日、ここに書いた全ての私の考えさえも、明日には一変するかもしれません。

人の考えもまた「有限」であり
「無限」でも「普遍」でもないものです。

それくらい、自分の中に執着は持たず、周りの多様性も受け入れながらも
自分の中心には、大事な「軸」を持ち「何か」へ向かうこと。

そんな風に
ありのままに生きるということを

バルコニーの掃除をし、近所を散歩しながら
これからも、皆さんと見出していきたいと思っております。

魂の声に愚直に生きる

自分の魂のミッションのようなことを「ダルマ」と言います。

これは車輪のようなもので、「法」とも訳せます。

つまり、自分の魂が今世を生きるときの「軸」になるもの

そういったものが、よく世間で言われるような「魂の使命」

それは、誰かに命令されるものでもなく
自分の魂が、自分の魂を磨くために決めた
自分自身がクリアしたいこと。

生きる上で、これを意識出来るかどうかは
人生の質が変わってくると思います。

自分の魂の声に嘘をつかないこと。

それも、また「正念」して生きることだと思います。

この自分の「法」に則っていないと
自分の人生に、何か不満足を感じる。

そういった意味では「愚直に生きる」
ということでいいのだと思います。

綺麗ごとで生きる必要もない。

何の為に生きるのか?
そんなことも、一人一人が見いだせることも、大事に思っています。

それもまた、自分自身に自由に生きる。

ということに通じる。

自分らしさを取り戻す場所

Veena Roomは、そういった意味でも、スピリットとしての自分に目覚めることを

発信していきたいと思っております。